スマホアプリで天下を取った、大学中退プログラマー・大坪義明

大坪義明は学生時代まで、プログラミングなどとは無縁の生活を送っていました。大学では理学部に入学したものの、人体生理学に関する分野を専攻したため、主任教授が行っていた人体に影響を及ぼす分子構造に関する研究をサポートしていました。しかし、大学入学とともに入部した武術部での活動に専心してしまったため、大学での勉学が疎かになってしまい、結局大学中退を余儀なくされてしまいます。

大坪義明は、そのような状況でもコーチとして後輩を指導し続け、部活動とのつながりは保持し続けます。そうした部活動に対する真摯な姿勢と、大坪が持つ理系的な頭脳に関心を寄せたのが、武術部の顧問で工学部の准教授であった海津正剛でした。海津は大学を中退してバイト生活を送っていた大坪義明に対して、立体の運動を計算するプログラム構築の仕事を斡旋し、報酬として謝礼を支払うようにしました。大坪義明にとってプログラミング自体は初めての経験でしたが、それまで理学部で培ってきた計算能力を動員して効率的なプログラミングの運用方法を考案し、それに伴って3Dプログラミングのノウハウを次々と蓄積していきます。気がつけば大坪義明のプログラミング技術は、業者のそれをはるかに凌ぐ水準にまで達していました。

大坪義明に大きな転機が訪れたのは、海津准教授からの仕事をうけるようになって約2年後のことです。新進気鋭のゲーム会社が、大坪が住む地方都市に拠点を定めるに当たってプログラマーを募集したのです。大坪はこの募集に応募して、見事このゲーム会社への就職を果たします。その後は、家庭用ゲーム機や携帯ゲーム機で発売されていたメジャーゲームの下請けを行う形で知名度を上げていく会社の中で大坪もプログラマーとしての地位を高めていき、入社から5年目にしてディレクターに昇進を果たします。会社も急成長を果たし、業界でその名前を聞かない人はいないほど有名になり、ゲーム以外の様々な部門に進出を果たすようになりました。最初は社長のトップダウンでアニメやその関連グッズに食指を伸ばしましたが、一過性のブームで終息してしまいます。業界における状況分析が甘かったと反省させられた社長は、潮流に沿いつつ、その中で光るコンテンツを抽出して成長させていこうという慎重路線に舵をきります。そこで注目されたのが、大きく成長が見込まれるスマートフォンのアプリ開発であり、その開発の責任者に任じられたのが、当時『社長の懐刀』とまで呼ばれるようになっていた大坪義明でした。

数々のプログラムをこなしてきた大坪も、スマートフォンのアプリ開発は初めての経験でした。しかし彼の胸は、初めてプログラムに触れた頃の記憶がフラッシュバックして大変興奮していました。「会社のため、社長のため」というよりも、新たなアプローチから自分が開発したアプリでスマートフォン業界を席巻してやろうという野心が、大坪を強力に突き動かしていました。しかし、そうした想いとは裏腹に、アプリ開発は難航を極めます。その原因は、大坪らプログラマーがアプリに求めるものと一般のスマホユーザーが求めるものにかい離があったためですが、そのことに気付くまで大坪達は実に半年以上の歳月を浪費してしまいます。そうした鬱屈した日々を打破したのは、社長からのアドバイスでした。「こちらから一方的に何かを与えるのじゃなく、ユーザー自身に何かを構築させることを前提とした、コレクション性の高いコンテンツアプリを作ってはどうか」といった助言から、大坪は街の風景を写真に取ることでパーツ化させ、それを組み合わせていくことで架空の街を作り上げるアプリを開発しました。このアプリのすごい所は、単におもちゃのブロックと同じような感覚で街を作るだけではなく、絶対にあり得ない『だまし絵』のような街を立体的に作り上げることができ、さらにそれをコミュニティサイトで公開することで万人から評価を受けられるようにした点です。このアプリは好評を博し、その開発者である「大坪義明」の名はより広く知られるようになりました。

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